絡んだ唐草に満開の牡丹文様は仏教でよく用いらる文様のひとつです。この文様は、染織品、建築、仏具などの装飾に象徴的に使われ、僧侶の袈裟など法衣によく織り込まれる文様です。袈裟にはさまざまな形状ありますが、すべて長方形の大小の布片をつなぎ合わせ、片方の肩に掛ける四辺形です。
  禅宗では、師は自らの袈裟を法脈継承の証として弟子に譲ります。 臨済宗では、九条数以上で構成された格式ある正装用の袈裟が代々受け継がれてきました。 これらの臨済宗の袈裟は少し特殊で、長方形でなく、中心あたりに特徴的な凹みがあります。
 
Kujo kesa

九条袈裟

ここでは、中世時代の高位な尼僧に関係する二枚の牡丹唐草文様の九条袈裟を見てみましょう。 無外如大禅尼(1223-1298)と智泉聖通禅尼(1309-1388)ゆかりの袈裟です。両尼僧は尼寺の開山で、それらのお寺は後の室町時代に京都尼五山に数えられ、女性の禅宗寺院として隆盛を誇りました。 無外如大禅尼は景愛寺の開山です。景愛寺は多くの塔頭があり、尼寺内の繋がりを支援し、女性が仏教の教えを実践し、禅の修行を深めることができるような修行道場として盛んでした。景愛寺の塔頭のうち、その法統を今も継いでいるのが、尼門跡寺院の寳慈院、寶鏡寺、大聖寺の三ヶ寺です。また、無外如大が晩年を過ごした正脈庵は、現在の眞如寺(京都市北区)です。 無外如大は鎌倉の円覚寺で中国の高僧、無学祖元(仏光国師1226-1286)から教えと印可を受けました。『仏光国師語録』によれば、無外如大は師より法脈継承の証として、師の肖像画(頂相)と伝法衣を受け取ったとあります。袈裟の伝法系図によると、これらはその後、代々景愛寺住職に引き継がれていきました。そして、1455年に慈照尼 (b. 1427)が正脈庵(無外如大が晩年を過ごした場所で、師である無学祖元のための菩提所)に袈裟を預けました。現在、相国寺(正脈庵と眞如寺ゆかりの禅宗本山)に保存されている黄色い顕紋紗の袈裟は、その箱と札に無外如大の名前が記されています。そして、円覚寺蔵で、師である無学祖元ゆかりの黄色の絡子も同じく牡丹唐草文様です。この二枚は同じ織組織の顕紋紗で織られています。 こちらが無外如大禅尼の牡丹唐草文様の九条袈裟です。

牡丹唐草文様 無外如大袈裟

師である無学祖元の絡子には、牡丹唐草は一部にしか現れません。柄が大きく、裂地が細く裁断されているためです。 それでも、巻き上がった葉にはいくらか類似点が見られ、無外如大禅尼の袈裟の花弁と似ているところもあります。全体の文様のバランスを考えると、無外如大尼の袈裟に配された文様の方が密です。

無学祖元 絡子

智泉聖通禅尼は、景愛寺の創建から約100年後に、通玄寺を創建しました。 通玄寺は、京都尼五山の五番目の寺院となり、そのうちの塔頭の一つが、曇華院の名称で今も存続しています。開山である聖通尼と、兄の天龍寺第二世であり開基の無極志玄(1282-1359)との縁、また、その後の天龍寺などの住職であった春屋妙葩(1312-1388)との関係から、現在曇華院に保存されている緑色と紫色の牡丹唐草文様の袈裟は春屋妙葩よりおくられました。その袈裟に次の書状が付されていました。 法衣一頂 地萌 畦紫 顕紋紗 まいらせ候 随分 秘蔵 して候を まいらせ候あなかしく 永徳二年六月三日  (1382) 天龍寺住持妙葩 (花押) 通玄寺東堂侍者御中 緑(萌黄)地に細長い紫色の顕紋紗の畦の法衣を贈る 長く秘蔵したものを敬意をもってあなたに渡す この袈裟には、緑色の地(「田相)と言う長方形の布)に紫色の行(堅条、横堤、縁)があります。大きな牡丹文様は、無外如大の袈裟とは異なる織組織の顕紋紗で表されています。唐草の葉は同じように巻き上がっていますが、無外如大の袈裟よりも文様が大きく、牡丹の花に対して葉に重みがあります。

牡丹唐草文様 智泉聖通袈裟

これらの二枚の袈裟の文様の繰り返しのパターンを見ると、サイコロの5の目のように2組の葉と牡丹の花を1パターンとして構成しています。下図の絵中の青い縦線は、パターンの繰り返しの境界線を表しています。

無外如大尼袈裟 文様1コマの図

智泉聖通尼袈裟 文様1コマの図

どうぞこれらの文様を他の牡丹唐草文様と比較したり、色塗りに使ったりとお遊びください。 無外如大袈裟文様 ぬり絵用 智泉聖通袈裟文様 ぬり絵用